それがあった。という事は忘れていません。
でも、何を感じたのか。どんな風に思ったのか。つまり、右脳的感覚が薄れていくのがわかります。
あれからもうすぐ3年です。
3年前の3月15日。
宮城県亘理町の災害センターに連絡をとりました。
釜石や名取には電話が通じなかったのを覚えています。
車とガソリンの確保。
物資集め(現地では、タバコが一番喜ばれた…)
情報収集
連絡をとった有志三名。
一人はカメラマンの玉子、一人は看護師の玉子、一人は消防隊員の玉子。
それぞれ今は鶏に成長しています。
私たちが被災地に訪れる数日前に自衛隊が道を切り開いてくれていました。おかげで車の移動がラクでした。一番ありがたいと感じたのは、彼らが用意してくれたテント風呂。これがあったから1週間作業に従事できたのだと思います。
滞在期間のほとんどを過ごした荒浜地区ですが、海から10メートルほどの所から住宅地になっていました。
被害は甚大。壮絶な光景が広がっていて、ただ海だけが静かに潮風を運んできているような。
大木は家に突き刺さってますし、道端には無数の電柱が寝転がっています。もはや原型が残っていない自動車の数々。建物2階がすっかり飲み込まれたであろう水跡。絶句とはこのことです。
そんな状態でも現地の方々は何故だか明るく、笑顔も交えて会話をさせてもらったのが印象に残っています。
でも、なんだか辛くなってしまったのは、民家で瓦礫の処理をしている時、住人のおばちゃまが半ば強引に一万円を私の手に潜り込ませた時の一言です。
『ありうがとう、ごめんね、ありがとう』
そう言ってました。
ありがとうはともかく、ごめんと言われるのが苦しいような、意味がわからないような…。
これはさすがに受け取れないと、しわくちゃの手のひらに一万円を戻しました。
そのあと、今度はどこからかお握りを持って来てくれたので、班のメンバー全員で頂きました。
食糧まで頂いてこちらの方が申し訳ない感じなのですが、そのお握りがとても美味しくて。美味しくて。
滞在何日かめの時、
『今、この土地の朝陽にこそ意味がある…』
なぜかそんな風に思いまして、本当にそれは、何の根拠もなく、ただそう感じたわけです。
車中泊で疲れて切っている仲間を起こして荒浜地区の海へ向かいました。
文明が揺れ崩れて、流されて、今この土地には、いったいどんな朝陽があるのだろうか。
好奇心のような、本能のような、そんな気持ちで車を走らせたわけです。
でも本当は、私の中で一つの仮説といいますか、きっとそうなんじゃないかと思っていたことがありました。
『きっと、綺麗なんだ』
それまでと変わらず。むしろ一層、美しくなっているのかもしれないと。
現実の瓦礫と、その向こう側に浮かぶような、包むような、夢のような空でした。
これだけの災害をもたらした自然がやっぱり美しく見えるのは皮肉だな。と…。
一つ違和感を覚えたのは、その美しい景色の中に何の命も感じられなかったということです。
2014年、桜の開花予報をチェックする今日この頃。
あの街の瓦礫はすっかり無くなっていることかと思います。
でも、復興を果たしたと言える日はまだ遠いのだろうし。
あの時と景色は変われど、やっぱり陽は昇るわけで。
東京は2週末連続で記録的大雪。一面真っ白な世界になりましたが、
果たして今、あの土地の朝陽はどんな感じなのかと。
変わらず美しいのでしょうか。
であるならば、その美しい朝陽の中に少しでも、あの時より少しでも
命を感じられるようになっていますように。
そんな風に願うのです。
いつかあの街の空手キッズ達と交流ができますように。
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